キュビスム的思考

デザインって何だろう?
カタチがあるものをつくることだけがデザインなのではなく、
今度の休日は何をして過ごそう、とか、
料理とか節約とか相手との会話の仕方などを考えることも、
れっきとしたデザイン行為なのであって、
むしろこれらの方が日々の生活に密着した、
大切なデザインなのかもしれない。

とすれば、
例えば現代の建築とルネサンス期の建築を、
ただ形の上での様式や形式などだけで比較してみても、
それはあまり意味がないことなのかもしれない。
その時代のその人たちは世界をどう見ていたのか?
デザインとはその“世界をどう見ているか?”ということの、
ひとつのフィードバック行為なのではないか?

“円環の破壊” M・H・ニコルソン著 小黒和子訳 (みすず書房)
はここ最近読んだ本の中でも特に面白かったもの。
副題は ~17世紀英詩と<新科学>~。
この副題の通り、
17世紀の科学による新たな発見がどう英国の詩の内容に影響を及ぼしたか?を探る本。
英文学史、科学史と別々に語られることが多い中、
この本ではそれら2つの間の平行現象を追っていくという視点が特徴的である。

ヨーロッパの思想史においては3つの大きな境界があるとされている。
それは古典時代、ルネサンス後の時代(つまり17世紀以降)、そして現代。
それぞれの時代において人間、世界、宇宙に関して独自の考え方があったようである。
大まかにルネサンスと呼ばれる時代までの多くの人々は、
宇宙とは壮大な円環であって、地球はその中の小さな円であり、
知性の座である人間の頭がまた、偉大な円環の小さな模写であると考えていた。
これら宇宙(マクロコズム)、地球(ジオコズム)、人間(マイクロコズム)、
の3つの世界は同心円をなし、
相互に関連しあう、万物照応の生きた世界であるとされていた。
彼らは風景や植物を手相術や人相学のように観るなど、
人間自らの中に世界の謎を解く鍵を捜し求める。
そして7つの惑星、天球の和音を構成する7つの音符、
天地創造の7日間、7つの徳、7つの大罪、プリズムによる7色などなど、
数の繰り返しなどに3つの世界の照応性を見出し続けた。
その時の彼らにとって、
世界は調和と秩序と均整と分限の世界であり、
神は黄金のコンパスを振るう偉大な幾何学者であった。

しかしその後、
コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、デカルト、ニュートンらの科学者たちによって、
円環の世界は歪められ、破壊されてゆく。
ケプラーがそれ迄完全な円を成していると考えられていた惑星の軌道を楕円に歪め、
コペルニクスやケプラー、ガリレオが太陽に静止せよと命じることで、
地球は世界の中心の座を太陽に明け渡し、
地球は惑星の中の1つに過ぎないものとなった。
そして世界も地球も機械的存在であると立証したニュートンが最後の一撃を与える。
生きた世界という物活論(アニミズム)は、
世界機械(ワールドマシーン)という機械論(メカニズム)に変わっていった。

『 層をなす天は均整のとれた球の形で
万物を抱擁するのを喜ぶとわれわれは思う。
しかしいろいろな時代に観察された
天の多様で複雑な道は、人々に、
・・・・・・・・・・
あの純粋な形を歪めているのを見せつける。 』

『 新しい哲学はすべてを疑わせる。
・・・・・・・・・
太陽は居場所を失い、地球もまた同様、誰の知恵も、
それをどこに探すべきか示してはくれない。 』
この時期を生きたジョン・ダンの詩には、
存在すると信じていた完全なる「円環」の世界が次々に破壊されてゆく時に
人々が抱いたであろう心情が表われている。

こうして「円環」という美しい秩序の中に暮らしていた人々はやがて、
膨大に広がる雑然とした世界に放り出されることになる。
しかしその後の新しい世代の人々は、
初めは人々を戸惑わせた宇宙の膨大さと無限性という新しい世界観の中に、
新たな神の姿と美の様式を見出すようになり、
「崇高(サブライム)」という新しい概念が生まれる。

この「崇高(サブライム)」については
同じ著者による“暗い山と栄光の山”(国書刊行会)に詳しい。
それまでは美しいはずの自然のおもてにできた
「疣(いぼ)、瘤(こぶ)、火ぶくれ、腫れもの」にすぎないとされていた荒涼とした山々に、
人々は「崇高(サブライム)」という新しい価値観を見出すことになってゆく、
当時の価値観の変化を追ってゆく、観念史の本である。
そしてここから「ピクチャレスク」という概念が生まれ、
次々に立体化された名画(風景画)が連なるテーマパーク、
英国風景式庭園へとつながってゆく。
(このあたりは高山宏氏の本の中に詳しくある)

ニコルソンや高山宏氏などの著書が強く訴えていることは、
例えば英文学史といったひとつの領域だけからは掴みきれないものがある、
“脱”領域し、他の領域との間に様々な橋を渡していくことで初めて見えてくるものがある、
ということかもしれない。
固定されたひとつの視点から構成された世界を破壊し、
多視点から対象を捉えようとしたキュビスム。
そういったキュビスム的な思考の必要性を訴えているように感じる。