2025/01/04

今日は事務所で年賀状などの郵便物の整理。
もう年賀状はこちらから出すのはやめているが、
頂いた方には返事を書くようにしている。

年末に「野性の知能」(ルイーズ・バレット著)を読み終える。
同時に、
「生物から見た世界」(ユクスキュル著)
「アフォーダンス-新しい認知の理論」(佐々木正人著)
も部分的に読み直す。

やはりユクスキュルが説く”環世界”と、
ギブソンが説く”アフォーダンス”は繋がっている。
彼らは主観(主体)というものを取り戻そうとしたのだ。
動物(主体)によって見ている世界は異なる、ということ。
どの主体からも独立した確たる世界、
あるがままの世界といったものはない、ということ。

その主体ならではの身体(感覚器官も含め)、
そしてそれを通じた環境との相互作用を抜きに、
本当の認知そして知能は語りえない。
脳至上主義を脱せよ、
知能はアタマの中にはない、
脳は身体に、
身体は環境に組み込まれているゆえに、
知能は脳-身体-環境が一体となったところに刻々と生まれる(野性の知能)、
とこの本は説く。

脳=コンピューター、
という概念の下での伝統的AI研究はフレーム問題という壁にぶつかり、
そのころ”アフォーダンス”理論の見直しが始まり、
身体性認知科学の研究を重視したロボット研究が盛んになっていく。
AI、ロボット研究が、
それまでの人間の認知・知能というものの見直しを迫ってくるのが面白い。

養老孟司氏はかつて「唯脳論」を書いた。
今の社会の現状把握として。
社会は脳の産物であり、
脳化社会では最終的に抑圧されるのは身体である、
そんななか、
性と暴力と死体は脳に対する身体からの反逆である、
と書かれたいたことを思い出す。
氏は「日本人の身体観の歴史」など身体についての本も書いている。

なぜこういった本を読んでいるのかと言えば、
それはやはり私が、
人-建築-(周囲)環境、
の関係のあり方に興味があるから。
カタチそのものではなく、
その関係の在り方をデザインできたら、
と考えているから。

「野性の知能」の路線上として、
次は「現れる存在」(アンディ・クラーク著)を読むのが良いのだろうが、
息抜きも兼ねて今読んでいるのは「進化しすぎた脳」(池谷裕二著)。