向こう側

向こう側

ここではない何処かへ、ここにはない何かを、
目に見ることもできず、手にも触れることのできぬ何かを、
かすかにでも感じながら生きたい、
そう考えている人が、わずかではあっても、いる。

日野啓三。
僕にとって彼はそんな人たちの一人である。
彼には「夢の島」や「砂丘が動くように」といった
読むものの世界観を大きく揺さぶる大型台風のような
たいへん優れた中編小説もあるのだけれど
ここでは敢えて、そよ風のような短編小説、
「示現」について触れる。

この小品には、いわゆるストーリーといったものはない。
僕はこの作品の最後にある、
オーストラリアを旅する主人公である男とアボリジニの老人との会話の部分、
そこがとりわけ好きなのだ。
そんな、わずか十数行ほどの部分があるだけで
その作品全体、その作家自身が好きになってしまう、
そんな小説も時には、ある。

世間では恋愛小説といったものの類ばかりがもてはやされているけれど、
彼はそういった類の作家ではない。
彼は作品を描き続けることで、それとはまったく異なったものを求めている。
それは何かと言えば、
日常の生活の中では得られない何か、
ここではない何処か、ここにはない何か、
眼に見えるものではない、手に触れることもできない、
けど、もしかしたら、
この世界を秩序付けている真理といったようなものがあるかもしれない、
そういった「向こう側」(これは彼の処女作品のタイトルでもある)の世界、
そんな、あるんだか、無いんだか分からない、
いや、恐らくは見つかるはずも無いような別世界へ通ずる回路のようなものを、
彼は作品の中で求め続けている。
この「示現」という作品は、
そんな「向こう側」の世界を探し続けている作家が
僕らに送って寄こしたそよ風である。

主人公は、地平線の向こうからやってくる風に吹かれる中、
いつしか、アボリジニの老人と荒れ始める平原を見つめていた。
主人公は老人に、なぜかふと、
「普通なら未知の他人にいきなり口に出来ないような質問」をする。
「人間、死んだら、どこに、行くのだろうか」

その老人は、そんな質問に驚くことも無く、
それはまるで、通りがかりに道を尋ねられでもしたように落ち着いて、
片手を上げて人さし指を黙って空に向けた。
「では、空に上がって、何になるのだろう」
続けて私は尋ねた。
途端に老人は俯いて片手を口に当て、クックッと小声で笑い出した。
おかしくてたまらないという様子なのだ。
子供でも知っているそんなことを、いいおとなが本気できくなんて、
という仕草だった。
ひとしきり屈みこんで笑い声を洩らしてから、上体を起こして、
老人ははにかむように一語だけ答えた。

「風ーウィンドー」

僕はこの部分を読むたびに、
まるで、そよ風に吹かれる中に立っているかのような、
そんな快さに包まれてしまう。

(上の写真は、イスファハン(イラン)のモスクにて撮影したもの)