魔法としての言葉~アメリカ・インディアンの口承詩~(2)

エスキモーの人たちは、あらゆる生きものや山、川、草、木、
そして太陽や雨や風や月の満ち欠けといった自然現象さえ、
自分たち人間と同じように生きているものと考えていた。
万物にはそれぞれのイヌア(所有者)が生活し、
それは人間の姿をしていると信じていたのである。
イヌアを仲介して、エスキモーの世界は自然と超自然が一体となっていた。
そしてエスキモーの人たちは生まれ変わりを信じていたらしい。
動物を人間と区別しない彼らは、当然、動物も生まれ変わると信じていた。
たとえばカリブーを仕留めると、その場所に頭部を切り落として残してゆくという。
カリブーは次の季節に毛皮を着て、肉を付けて戻ってくると信じていたからである。

こうした世界のとらえ方、また生まれ変わりといった考え方、
すべてのものが魂を持ち、世界を共につくっているという彼らの謙虚な姿勢は、
人間が自然の中で行き続けてゆくための、
いわば知恵のようなものであったのかもしれない。
たとえば生まれ変わりを信じるという知恵、
それは来世という先の未来に責任をもって今を生きるということにつながってゆく。
彼らはそういった遠くにかすかに見える地平線のさらに向こう側を
わずかにでも感じ続けようとしながら生きることで
この大地にまっすぐ立つことができたのであろう。

しかし、20世紀に飛躍的に発達し、今を生きる多くの人たちが
ひとつの大きな価値基準としている科学というものは
こういった知恵を認めようとはしないであろう。
つまり、科学的には真実ではない、ということになってしまう。
しかし、それでは真実とは何なのだろう?
もし僕らの生活に一輪の花を添えるものでなかったら一体何のための真実なのか?
逆にいくら科学的に真実ではないとしても、
それが僕らの生きざまに少しでも彩を与えてくれるものであるならば、
それはそれでれっきとした真実なのでは?
科学は僕らを宇宙へと連れて行ってくれるかもしれないが、
彼らのような精神的にも想像力的にも豊かな生活には
僕らを導いてはくれないのかもしれない。