パーティーは終わった・・・

『全生命のためのテクノロジー』(めるくまーる社)。
副題は「 ~適正技術に文明の未来を探る~ 」。
さて、適正技術とは何か?

バターを切るにはチェーンソーよりもナイフを使った方が賢明である。
~A.ロビンス

この本が扱う内容はテクノロジーはもちろん、
エネルギー学、経済学、政治学、環境学など実に多岐にわたっている。
ただ共通して云えることは
そういったものを含めて、
この世界のありようを生物学的、生態学的見方で見つめ直してみよう、
という姿勢である。

この本を読んで感じることは、
どうも今現在の人間というのは、
必要以上に大きい殻を背負ったカタツムリに似ているらしい、ということだ。
その必要以上に大きい殻というものが例えば科学技術であり、
それにひきずられ、押しつぶされそうになっているのが人類、ということだ。
興味深いことに、自然界で生きるカタツムリにおいて、
必要以上に殻が大きくなることはないらしい。
カタツムリはその殻を形成している環状の構造体がある一定数になると、
それまで続けていた構造体の製造を突然やめてしまう。
もし仮に、さらに殻の構造体が1つよけいに増えたとすれば、
数学的には殻の容積は16倍と幾何級数的に大きくなり、
カタツムリ自身を保護するよりも、その過重によって活動が困難になるらしい。
そういった過剰な成長が一度始まったとすれば、それは幾何級数的に増加するが、
カタツムリ自身の生産活動は、良くても算術級数的にしか増えないので、
とても追いつくことができない、というわけ。

これが成長には限界があるということの、生物学的理由である。
成長は、ある時点までは非常に有益であるが、
それを越えてしまうと、成長はむしろ衰弱と死をもたらしかねない。

このように、
自然は常に、いつ、どこで成長を停止すべきかを心得ている。
この自然の成長停止は神秘でさえある。
すべて自然なものには、そのサイズ、速度、暴力性にいたるまで、
程度というものを心得ているのだ。

テクノロジーはもちろん、人間が作り出したものだ。
そうでありながら、このテクノロジーというものは、
妙なことに、それ自身の法則と原理によって
勝手に発展する傾向を持っているらしいのだ。
そしてこの傾向は自然一般の法則、原理とは著しく異なり、
そのサイズ、速度、暴力性において、成長停止の原則をまるで認めようとはしない。
生物学的、生態学的に見れば、自然の微妙な仕組みの中にあって、
今のテクノロジーというものは異物のように作用しており、
その拒否反応が
例えば以前に採り上げた『百年の愚行』に見られる数々の問題の写真、
と考えることもできる。

進歩という言葉には気をつけたほうが良いのかもしれない。
進化という言葉も同じだ。
これらの言葉には
なぜか良い意味での前進、改善という響きを備え持っているように感じてしまうからだ。
しかし、現実にはそういった良い意味だけでの進歩、進化ばかりではない。
20世紀は確かに、それまでには見られないほど、
テクノロジーは進化し、進歩したと云えるのかもしれない。
そして、ある時点までの進化、進歩は非常に有益であったのであろう。
しかし、いつしか、ある限度を越えてしまっていたのではないか?
バターを切るのに、わざわざチェーンソーを使ってしまうといった、
必要以上に大きな殻を背負ったカタツムリに、
人類はなってしまったのではないか?

もしテクノロジーによって形づくられたもの、
そして引き続き形づくられるものが病んでいるように見えるのなら、
テクノロジーそれ自体に目を向けるのが賢明ではなかろうか。
テクノロジーがどんどん非人間的になっていると感じられるなら、
何かもっとましなものがありはしないかよく考えてみるのが当然だろう。
人間らしい顔をしたテクノロジーである。
~E.F.シューマッハー

『百年の愚行』に見られるような、
今迄人類が信仰してきた巨大技術がもたらした、
自然からの拒否反応をいち早く予見し、察知した者たちが、
むやみにテクノロジーの進化や進歩、そして巨大化ばかりを求めるのはやめて、
地球生命圏といったマクロな生物学的視点で、
そのサイズ、速度、暴力性において人間にふさわしいテクノロジー、
つまり「人間らしい顔をしたテクノロジー」を探ろう、
そういった警鐘を鳴らしているのが、この本である。
適正技術とは人類というカタツムリにふさわしい大きさの殻、
と云えるかもしれない。
求められているもの、
それは決して新しい技術なんかではなく、
エネルギーを湯水のごとく浪費するアメリカ型文明のようなパーティーは終わった、
という人間の意識の変容なのかもしれない。

(上の写真はインドのガンジス河とヤムナー河の合流点にある
ヒンドゥー教の聖地アラハバードでのマーグ・メーラーという聖なるお祭りの跡のもの)