絶望の精神史

先週土曜日は、
『中目黒の家』のお施主さんと打ち合わせ。
工務店さんから出て来た見積もりが予算を大きくオーバー。
材料の単価も以前より上がっている。
地震の影響であろう。
VE案の検討とともに、
工務店さんとの打ち合わせを重ねていく必要あり。

週末は『絶望の精神史』金子光晴:著(講談社文芸文庫)を読了。
金子光晴の詩を初めて読んだのは10年以上も前。
バンコクのチャイナタウンにある安宿に彼の詩集が置いてあった。
おそらくは日本へ帰るバックパッカーが残していったものであろう。
その中の“おっとせい”という詩が大変印象深くて、
自分が日本から持ってきて既に読み終えていた坂口安吾全集の1冊と引き換えに、
その詩集を頂いた。

そんなことを想い出しつつ、
『絶望の精神史』の後に、
坂口安吾の『堕落論』『続堕落論』を続けて何年ぶりかに再読。
明治・大正・昭和を生きた両者の、
日本そして日本人に向ける眼差しは似ていることが分かる。
(”おっとせい”という詩の中のことばで言うと、
両者とも「むかうむきになってる おっとせい」?)
金子光晴は、なぜ絶望しないのか?と問い、
坂口安吾は、生きよ堕ちよ、と言う。

「僕は、むしろ絶望してほしいのだ。・・・・略・・・・
箪笥にものをかたづけるように手ぎわよく問題がかたづき、
未来に故障がないというような妄想にとりつかれてほしくないのだ。
しいて言えば、今日の日本の繁栄などに、
目をくらまされて欲しくないのだ。」

『絶望の精神史』が書かれたのは1965年。
しかし上の言葉には、
それから半世紀近く経った今も強く響くものがあるように感じる。