私の スケール感
見るスケール
見るスケールによってそこに現れる世界は変わる、そう強く認識したのは数年前に「量子論」の本を読んだ時です。
1ミリメートルの1,000万分の1より小さなミクロの世界での物質観は、普段私たちが目にしている因果関係のある決定論的な物質観とはまったく違って、不確定でいくつもの世界が重なり合った奇妙な世界。
しかし私たちの目に映る物質もそういったミクロの物質が集まってできているのであって、スケールによって物質の世界観がまったく異なってしまうのはおかしいのではないか?アインシュタインはそう考えて、それらの理論(相対性理論と量子論)の統一の可能性を探し求めることに後年を費やし、今も多くの物理学者がその可能性を追い求め続けています。
まだその理論は見つかっていませんが・・・。
設計においても見るスケールの違いによってそこに現れる世界は変わります。
その世界を自分たちはどこかで結び付けていかなければなりません。
だから図面を描きます。
つまりさまざまな縮尺の図面を描くこと、それはその縮尺で現れるさまざまな世界とつながる関係の回路を見つけることなのだと思います。
たとえば5万分の1などの小さい縮尺の図面では、周囲の地形やそれによる気象などとの関係、200分の1の図面では敷地と街区などとの関係、100分の1では隣家や道との関係、50分の1では敷地と建物の関係、部屋と部屋との関係、20分の1では壁や開口部や家具などの物と物との関係、5分の1から原寸の図面では工業製品の寸法や施工性との関係、といったように。
大きな縮尺から小さな縮尺へ、小さな縮尺から大きな縮尺へと、設計中はさまざまな縮尺の図面間を絶えず行き来しながら検討を重ねていくのですが、それは部分から全体へ、全体から部分へと思考の方向性を変えながら、それぞれの縮尺の図面での世界(価値観)相互に関連を持たせることなのではないかと思います。
つなぐスケール
ある住宅の設計において感じたことがあります。
敷地の位置をパソコンのモニター上の地図で確認しようとして、たまたま縮尺を数万分の1程度にまで思い切り小さくしてみた時のことです。
小さな敷地はその縮尺の中では見える点でさえなくなってしまうのですが、その代わりに敷地から10km以上離れたところで西から北そして東にかけて、それなりに高いいくつもの山に囲まれていることが分かりました。
南側に海があるのは分かってはいたのですが、山々に囲まれた敷地だとは迂闊にもその時はじめて気が付いたのです。
このようなかたちで山々を背後にしていると、午後に吹く山風の向きにばらつきが生じるのではないか、そう思い、早速気象庁のデータを入手して調べてみるとやはりその通りで、1時間単位で午後の風向きはころころ変わることもあることが分かりました。
夏にはある程度気温が上がる場所なので、夏の午後の涼しい山風はできるだけ住宅に採り入れたいと思いました。
そしてこのことがこの住宅の根本的な構成に強い方向性を与えることになったのです。
小さな住宅と10km以上も離れた山々とが、見るスケールを変えることで回路がつながった経験でした。
私のスケール観
今の事務所に越してきた時に最初にしたこと、それは事務所内の天井や梁下の高さ、壁の幅や開口部の大きさを測り、その寸法を記入したシールをそれぞれの箇所に貼ることでした。
この事務所では当然歩き回ったり、座ったり、食事をしたり、時には寝ることもあります。
つまり住宅と一緒。
まずはそういった自分がもっとも長い時間居る場所の寸法、その数字をいろいろな行為を通じて体感とリンクさせる。
そしてこれが自分の基準スケールになります。
設計をする時はまずは敷地に立つことから始めます。
それまではあえてプランのことなどは一切考えない。
そして敷地内を歩き回り、実際の敷地の大きさを周囲のものとの距離感などと共に体感する。
その後ある程度プランの方向性が決まったら再度敷地に立つ。
今度は各階ごとのプランを思い浮かべながら敷地内を歩き、プラン上の距離感などを体感とリンクさせる。
私は住宅を設計する際、先の自分なりの体感スケールを基準にまずふたつのスケールの空間を設定します
。あえて小さめにしたスケールの空間と、あえて大きめにしたスケールの空間。
常に空間が身体を包み込んでいるのが肌で感じられるような小さめのスケールの空間と、ちょっと身体を突き放すかのような大きめのスケールの空間。
できればその大きめの空間は、太陽の光とか空の色といった外部の世界の変化に敏感に反応するような空間にする。
どんなに小さな住宅でもこれら2つのスケールの空間をどう組み込むか、まずはそう考えてきたように思います。
旗竿敷地に建つ平屋の「つくばみらいの家」では、住宅外部と小さめのスケールでつくられた各個室との経路の間に、それらのスケールの違いを埋めるような空間を挟むことで、スケールにおけるグラデーションのようなものができたらと思いました。
広めの前面道路から両側を隣家に挟まれた竿部分のアプローチを進んで突き当たりにある大きめの扉を開けると、そこは内部空間ではなく中庭になっています。
中庭は4辺が高さ4m少しある壁に囲まれた少し大きめのスケールをもつ空間です。
この中庭からLDKなどの共有スペースに入るのですが、この共有スペースの天井高さは3,640mmあり、その天井すべては柔らかい光を通すトップライトになっています。
太陽の光の変化などに敏感に反応する、強い雨の時は屋根に降る雨音も少し聞こえる空間です。
3,640mmという天井の高さは、壁材や柱材の規格寸法等を考慮すると同時に、そこで日常生活をするにあたって、天井の存在がほとんど気にならないギリギリの高さ、かつ、物が置かれても壁の上の方が半分ほど残るようなたかさにしようと決めました。
そこを経て個室に入ると、光量の絞られた4畳程の小さい空間です。手が届く程の高さに1畳強のロフトがあり、そこが寝る場所になっています。
つまり建物外部から寝る場所に到るまでに、段階的に光量を絞ると共に体感していくスケールも段々と小さくなっていくのです。
住宅は当然身体的スケールを重点につくられるべきだと思いますが、住宅全体を身体的なスケールのみで埋めることには抵抗があります。
いわゆるヒューマンスケールだけの世界は、人間を建物に閉じ込めてしまうことになると思うからです。
住宅内部とその外部にある世界をスケールの操作によってスムーズにつなげられたらと考えています。
さまざまなスケール
私たちの身の周りにはさまざまなスケールのもので溢れています。
商品広告や雑誌での写真、テレビやインターネットのモニターに浮ぶ人物や風景の画像、超高層ビルの足元にある道路を時速4~50kmで車が走り、そのすぐ横を時速4kmで歩きながら、光に近い通信速度ではるか遠くの人と携帯電話で会話をする、そういった日常生活を送っている人も多いことと思います。
時間にもスケールがあります。
小説や映画は時間を縮尺した表現形式であるといえると思います。
ものを見る時間スケールが変わると、それまでとは違った世界観が見えてくるかもしれません。
地震が起こるメカニズムにマントル対流という言葉がありますが、マントルという硬い岩盤も地球的時間スケールでみれば、対流という気体や液体のような振る舞いを見せるということだと思います。
つまり気体か液体か固体かという物質の状態は決して自明のものではなく、それを見る時間スケールで変わる相対的なものであるということです。
風や雨も同じように考えることができ、それによって今までとは違ったかたちで建築に採り込めるかもしれません
。時間スケールのとらえ方ひとつで、建築のあり方も変化があるかもしれないのです。
宮沢賢治は自らを自然的な永い時間スケールに置いて世界を見ることができたからこそ、人間のあり方さえそれまでとは異なって見えたのかもしれません。
『わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電灯の/ひとつの青い照明です』といった詩のように。
今までとはちょっと違った空間的・時間的スケールでものを見てみること、そのようないろいろなスケールで見えた世界観を建築に採り入れてみること、さまざまなスケールを身体的スケールとともに混在させること、それは今までとは少し違った空間の豊かさや密度をもたらすのかもしれない、そう考え始めています。
新建築 住宅特集2013年2月号 コラム:住宅の設計力
私の スケール感
コメントを投稿するにはログインしてください。